「ネット右翼」と呼ばれる人たちへ

筆者は石けん・合成洗剤問題などを中心に、環境や安全に関連する消費者情報を研究テーマとする者であり、国際政治等について偉そうに語ることのできる立場ではないが、自身の研究・社会活動等で得た経験や知識から、多少は参考になる意見を述べることができるのではないかと感じたので、右翼化しているといわれている人々の方向性について私見を述べたい。

「ネット右翼」または「ネットウヨ」といった言葉には種々の定義があるようだが、マスコミ等の一般レベルでは、かなり広い範囲で捉えられている。小泉首相の靖国参拝をめぐって、多くのマスコミが批判的に論じたのだが、一般国民はマスコミが予想していたのと反して比較的多数が首相の靖国参拝を肯定的に捉えているとの結果が得られた。その状況に対するマスコミからの分析の中で、若者の右翼化を挙げ、憂慮すべき事態だと述べている主張が多かった。また、若者の右翼化の原動力となっているのがインターネット上でのコミュニケーションだと分析されている。そのネットコミュニケーション参加者の中で、一般に右翼的と表現される意見を有する者を「ネット右翼」と称してよいだろう。

ネットコミュニケーションでの意見を観察すると、ネット右翼に分類されるであろう人物が、戦後の日本社会の左翼化にうんざりとして、特にマスコミの左翼的態度に大変な苛立ちを感じている様子が伺える。一方で、左翼の代表として捉えられているマスコミは、社会的に成熟していない若者が個人的欲求不満を抱き、そのエネルギーを偏った「愛国」に注ぐようになった結果であると捉え、きわめて憂慮すべき事態だと訴える。そしてそのマスコミの表現が、また若者による過激な言動を誘発していく。いや、実際には若者なのかどうかもネット社会では不明なのだが。

このような右翼と左翼の話題に関しては、当然、数え切れないほどの多くの分析や意見が示されているが、ここでは社会における右翼と左翼のあり方を、できるだけ単純化して捉えることとする。右翼v.s.左翼をはじめとして、賛否両論の分かれる論争に関して、そのどちらかを支持する立場、またはどちらかを強烈に忌避する立場にあると、その当該課題についてはなかなか冷静に判断することができなくなるものである。そこで、ここでは、異なる単純な事象に当てはめて状況を把握しよう。

今回のように両極に分かれる論争は、風呂の温度に当てはめて考えてみると分かりやすい。右翼を風呂の温度が高い方向性、左翼を風呂の温度が低い方向性と捉えよう。さて、戦後の日本で教えられてきた教育内容は、「風呂の温度が高かったため、私たちは過去に大火傷を負った。この大火傷を教訓として、私たちは風呂の温度が高くならないように細心の注意を払わねばならない」との主張である。マスコミ、知識人等はこぞって熱湯による火傷の怖さを主張し、風呂の温度は低温が望ましいと主張してきた。高温(=愛国主義や右翼化)こそが最も忌み嫌うべき対象であるとして、「風呂の温度を上げよう」との主張は、少なくとも大学等を中心とした知的階層では表面化できない状況が続いた。

しかし、次第に風呂の温度が低すぎるための弊害も明らかになってきた。それまで、風呂は冷たければ冷たいほど良いとする考え方が日本の知識層で支配的だったが、冷水風呂に浸かって体温低下で死にかけたという事例(=ソビエト連邦崩壊)をきっかけに、風呂の温度が低いことへの問題点が広く知れ渡るようになった。それで、日本でも風呂の温度が低すぎるので、もっと温度を上げるべきだとの主張があちこちで表面化するようになった。「新しい歴史教科書」が出現し、石原都知事による右寄り気味の発言も一般市民レベルで支持を得るようになってきた。

右か左か、その決定的な注目点となったのが小泉首相の靖国参拝である。一国の首相の立場で、風呂の温度を上げるべきとの意思を表明した。賛否両論が交差して微妙なバランスを保っていたところに、北朝鮮のミサイル・核問題が表面化し、一気に右寄りすべきとの意見が一般国民、特に若者の賛同を得ることになった。

一方で、火傷の怖さを伝えることを第一の価値観としてきた知識層は、いまや蜂の巣をつついたような混乱状態にある。火傷の怖さを忘れるとは、戦後の日本で最も大切にしてきたものを打ち壊すことは何事かと奮い立つ。しかし、その対応がまたネット右翼の心を苛立たせる。そして、ネット右翼たちは「凍傷の怖さには触れず、火傷のみの怖さを強調するのは不公平」とマスコミを攻撃し、「マスゴミ」等と称して軽蔑対象とし、また日本の左翼化のシンボルとしての中国、韓国、北朝鮮に対する憎悪を膨らませる。

しかし、ここで「ネット右翼」と呼ばれる人々へ伝えたい。左翼v.s.右翼の構造のもとで片側を支持する立場をとることは決して賢い手法ではない。温度を「上げる−下げる」の軸に乗っかってしまうのは避けなければならない。「低温を支持するのは馬鹿だ。温度を上げろ」というような主張がどのように受け取られるのか、今一度考えてもらいたい。

求められるのは、合理的で冷静な態度である。たとえば「風呂の温度は40±2℃が望ましい。過去に火傷を経験した立場からすると38〜40℃が望ましいであろう。しかし、現在の温度は25℃であり、あまりにも低すぎる。よって、38〜40℃を目標として温度を上げるべきである。」というような考え方と主張が求められる。

「ネット右翼」と呼ばれる人たちも知っているように、「温度を上げてもよいのではないか」という意見に対して、暴力的に阻止を図る、一種の社会ネットワークが存在することは確かだ。左翼系の方針や組織を否定する主張を実名で発すると、しばしば大きな不利益を被り、危険が伴う。そのため、現在の学校教育等の現場では「風呂の温度が低すぎるのも良くないのではないか?」といった、極めて自然な児童・生徒の感覚も「火傷の怖さを知らないのか」との威圧的言動で抑え込まれる場合が多くなる。結果として左翼的方向性に反発を感じる若者が増えてくる。

しかし、思考力のある者は、次の点を決して忘れないでほしい。上記とは逆に、世の中には温度を上げることのみに価値観をおき、温度を上げることに否定意見を述べる者に対して脅迫的に圧力をかける、過激な組織や個人も存在するのだ。「ネット右翼」と呼ばれる者は、左翼的方向性に対して、利己的・感情的・暴力的な態度を感じ取って反発している場合が大部分を占めるであろう。しかし、問題点として感じるのは「左翼的」な部分なのか、あるいは「利己的・感情的・暴力的」な部分なのか、どちらなのだろうか。答は決まっている。反発すべき対象は「利己的・感情的・暴力的」な態度なのであって、「左翼的」な部分を攻撃対象とするのは間違っているのだ。「利己的・感情的・暴力的」であるのが「左翼的」なのではない。なぜなら、「利己的・感情的・暴力的」な「右翼」が存在するのだから。現在の社会の中では、左翼的な思想を有した個人・団体・国等が、どちらかといえば利己的・感情的・暴力的な性質を有する傾向があることは否定できないかもしれない。しかし、反発対象の「利己的・感情的・暴力的」が「左翼的」と等価ではないことは明確に認識しておくべきだ。

具体的にいえば、左翼的方向性を批判するのに、「嫌韓」などに代表される感情的な言葉を用いてはならない。「嫌う」といった感情を前面に押し出した表現で第三者を攻撃することは、利己的・感情的・暴力的な態度そのものだ。国や人種を蔑むような攻撃的発言も控えるべきである。個人的には、「ネット右翼」と呼ばれる人たちが、歴史問題、教科書問題や国境問題等をめぐって左翼的立場の個人・団体・国等に反感を抱く背景は理解できる。たとえば、最近のギクシャクした日本と近隣諸国の関係について、客観的にみれば関係悪化を煽りに煽ったと思われる立場にある左翼系のマスコミや団体が、関係悪化の原因は政府にあると平気で言ってのける。因果関係を冷静に判断することのできる者なら、その左翼系マスコミや団体に腹立ちを覚えることは当然のことだろう。

しかし、それらの対象を暴言で攻撃するならば、自身も結局は感情的で暴力的な態度に染まったことになる。論点を「左翼v.s.右翼」と捉えられたならば、結局は同じ穴の狢に成り下がってしまうのだ。あくまで「理性v.s.感情」の対立軸のもとで、理性を尊重する姿勢で臨まねばならない。感情的(≒利己的・暴力的)言動によって自身の感情的側面が誘発されてしまったならば、そこで一切の正当性は消失する。なにも、おとなしく押し黙るべきというのではない。事実関係としての情報発信を控える必要は全くない。しかし、他者から感情的だと判断される言動は、厳に慎むべきなのだ。

「火傷は怖い」との主張に対して「凍傷も怖い」とのみ対応してはならない。「火傷は怖い」との主張に対しては「火傷も怖いが凍傷も怖い。安全で快適な温度は40℃付近だ。現在25℃なので15度上げるべき。」と論理的に説明すべきである。温度を上げる側、温度を下げる側、そのどちらの立場にも凝り固まっていない立場から、どの程度温度を上げるべきと説明することが望まれるのだ。

実際には、そのように理性的な説明を試みても、相手方は話題をすり替えたり、揚げ足取りに終始したり、暴言を吐いたりと、感情的言動で攻撃してくる場合も多いだろう。しかし、自身の考えが論理的に正しいと感じている者は、あくまで冷静に受け答えすべきであって、感情的言動で対応してはならないのだ。

むしろ、社会的重要性のある種々の決定事項に関して、感情的要素を抑えて理性的判断を優先させるためには、どのようなシステムが求められるのかといった広い観点から問題点を捉えることが望まれる。個人、団体、そして国に至る種々の次元での感情支配型特性が、大きな社会問題の原因として注目される。そのような個人、団体、国等に対して「消滅せよ」などと投げかけるのは、実は最低・最悪の感情的言動なのである。

重要なのは過去の火傷の経験をどのように活かすかという点だ。日本の今までの知識層は、火傷の経験から「熱いのは怖いから温度を下げろ」という結論を導き、それが正しいと考えてきた。しかし、その考え方は、今後の国際社会のありかたと照らし合わせると適切なものではなくなった。これからは「火傷も凍傷もない安全な温度に保とう」という結論を導くことが求められる。

さて、ここでは単純に戦争の悲劇は日本国内の右翼化が原因だったとしよう。戦争の悲劇の原因が日本の右翼化のみに帰することに異を唱える者もいるかもしれないが、ここではそう仮定する。さて、右翼化が戦争の原因だったとして、その経験から平和のためには左翼化すべきとする結論を導くのは正しいだろうか。これは明らかに間違っている。「平和のためには極端な右翼にも極端な左翼にも偏らない適正なバランス感覚を有した社会を築こう」という結論を導くべきなのだ。そのバランス感覚をもとに、左翼方向に偏りすぎた日本社会に対して問題を提起するなら、欲求不満の解消のための「ネット右翼」などという陰口をたたかれることもなくなるだろう。

最後に、もう一度繰り返しておきたい。「嫌う」といった感情を表面に出してはいけない。あくまで合理的思考に基づいて、冷静に対処する態度を身につける人々が多数派を占めていくことが、今後の社会に求められるのだ。

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 大矢 勝 (2006.9.27)