「消費者の環境情報学」の発行にあたって(2)
〜「考える科学」の限界?〜

先に「消費者の環境情報学」の発行で、今まで抱いていたモヤモヤが解消されたが、それと同時に、今後の課題、いや大きな障害と表現したほうがよいであろうものも見えてくるようになった。霧が晴れると、進行中の道を絶壁が阻んでいるのが判ったという状態だ。その絶壁とは、「科学的に思考する」態度を絶対に正しいと主張することの限界を感じたことによる。個人、集団・グループ、国家(民族)レベルでの科学的思考のあり方を考える過程で、科学的根拠を元とした主張には限界があるのではないかと疑問を抱くようになったのである。

「考える科学」の限界について考える場合、「考える科学」の社会的意味について整理する必要がある。そして、「考える科学」の社会的意味を理解するためには「自由主義的−全体主義的」の尺度を理解する必要がある。自由主義(リベラリズム)とは個々人の自由意思を組織・自治体・国家の方策等に反映させることを正しいとする考え方であり、全体主義とは個人の自由や利益よりも組織全体の利益を優先させる考え方である。全体主義は第二次世界大戦におけるイタリアのファシズムやドイツのナチズムが代表的事例として扱われることが多く、一般には否定的表現として捉えられる傾向が見られるが、「自由主義的−全体主義的」尺度上では特にそのような肯定的・否定的な価値観とは連動しない。あくまで個人よりも組織全体を優先する方向性を指して「全体主義的」とする。歴史上、栄華を極めた国家の多くは全体主義的政策をとっていた場合が多く、否定的表現として固定化されるものではない。ここでは「全体主義的」をより広い方向性としてみる必要がある。例えば、ナチズムやファシズムに対しての否定的思想を、個々人の自由な思考からの得た結論としてではなく、上部から理由なく「悪」であるとして教え込まされる体制をとったとすれば、それも全体主義的な体制だということになるのである。

一方、自由主義については個人的な利己主義との区別を明確にしておく必要がある。個人の自由を尊重するといっても、そこには当然、組織・国家・世界等の全体的な利益のバランスのもとで個人の自由や利益を考えることが要求される。そして、そのような利害関係等のバランスを考えていくためのツールとして、「考える科学」の本質的な意味がある。「考える科学」では、あくまで客観的事実としてのデータが重要であり、ごく一般的な倫理観、すなわち機会の均等や平等な権利等を尊重した判断基準で方針を定めることになる。ベースになるのは個人の意思であり、その個人の意思決定をより適切な方向に導くために「考える科学」が求められる。一方、全体主義的な体制にとって、個人レベルでの「考える科学」は障害物以外の何者でもない。組織としての意思は統一されていなければならないので、組織の構成員に意思決定の自由は与えられることはない。

自由主義的といっても、組織を形成する限り、その組織はある程度の全体主義的要素を含むものであって、自由主義体制が完全に個人の権利を守るということはありえない。しかし、実際に自由主義的な国家・組織と全体主義的な国家・組織を区別することが可能である。例えば、「国家・組織の現在の主流たる方針・政策に対して自由に異議を唱えることができるか」、「国家・組織の主流たる方針・政策に対する反対意見にどのようなものがあるかについて国民・構成員が自由に知ることができるか」、「国民・構成員が国家・組織の方針・政策に関連する情報を自由に入手することのできる環境が整っているか」、「国家・組織が国民・構成員に対して、その方針・政策に関連する多種・多様な意見を提出するよう求めているか」、といった観点から評価することができる。このように、情報の収集と発信の自由が保障された環境下において、はじめて「考える科学」が有効になる。個人、組織、国家等のそれぞれの段階において、自由主義的方針が尊重される環境が整っていなければ、「考える科学」は有効に作用しない。

具体的に環境問題との関連で見ていくこととしよう。物事には原因と結果という因果関係があるのだが、結果に着目して環境問題を捉えていこう。環境問題に関して、最も避けなければならないのは地球上に人類が生存できなくなること。環境問題として、地球温暖化、オゾン層破壊、海洋汚染、酸性雨、砂漠化、熱帯林減少等のキーワードが思い浮かぶが、それらの問題に対してどうすべきなのか?一応、国際的に認められた方向性が「持続可能な開発」である。できるだけ環境破壊を避けながら経済活動等は不況に陥らない程度に持続する。 そこで重要になるのが、限られた資源等を不公平感の少ない形で如何に配分するのかというバランス感覚だ。

このような資源配分等のバランスを考える手法として、「考える科学」が絶対的威力を発揮する(はずである)。種々の要因を分析し、総合的に配分バランスを決定する。そこで絶対的に重視されるのが、根拠となるデータの正確さと論理的思考である。もちろんデータの算出法や論理展開のありかたによって、導かれる結論が大きく左右されるものもある。よって「考える科学」のもとでは問題がないわけではないが、それでも世界中で科学的なデータ・論理思考を重視するという方向で意思が統一されていれば明るい将来展望が開ける。もしも消費者・市民レベルで「考える科学」をベースとした意思決定システムが備わるのならば、政治・経済界も合理的手法を第一とする原則を共有することになるであろう。表面上は、国際社会の中でも消費者・市民レベルでも自由主義的方向性を正しいものとみなし、「考える科学」を尊重する姿勢が打ち出されている。

しかし、現実的な社会レベルでみると「考える科学」には限界があるように思われる。個人、集団・グループ、国家・民族レベルで、本当に科学的データ・論理思考が重視される環境を形成することが可能なのか疑問に思われる。以下、個人、グループ、民族・国家、それぞれのレベルでの課題について考えてみたい。

【個人レベル】
日本国内の個人レベルでみた場合、「考える科学」の可能性は大きい。先述したように、大学等の高等教育機関でも知識供与型の教育から脱して、学生それぞれの思考力を育成する教育を目指すようになった。大学教育の中で、また生涯学習としての消費者教育にも「考える科学」を身につけるための内容を取り込むことに異を唱える人はほとんどいないであろう。但し、実際にそのような目的をもった教育実践は少ない。特に、一般社会人に向けての消費者教育の場面では皆無ではなかろうか。「消費者自立」・「意思決定」といったスローガンを耳にすることはしばしばあったが、実際の内容としては、教授する側が、「合成品を避けて自然品を選択しよう」や「大量消費をやめて省エネ・省資源に貢献しよう」といった、かなり明確な方向性を示すものが大部分を占める。省エネ・省資源等は基本的に推奨されるものではあるが、その考え方を身につけさせようとする従来型の教育では「考える科学」は身につきにくい。明確に「考える科学」をイメージし、消費者教育の中での重要性を認識しつつ、実践を積んでいくというスタイルの教育によって、はじめて科学的根拠を元とした理性的判断が育成され、「考える科学」が第一とされる消費社会が形成されることになるであろう。そのような状況を夢見て著したのが「消費者の環境情報学」である。

しかし「考える科学」は誰もが受け入れることのできるものではない。日本等に在住する者の大部分は努力次第でデータを基とした客観的思考を受け入れることができるであろうが、そのような思考パターンを受け入れることのできない者も少数派ではあるが存在する。人の思考パターンはその人生そのものであり、育ってきた環境・経験等で大きく左右される。具体的には、育った家庭環境が、子どもの自由意志を無視し、親の身勝手さを絶対的価値あるものとするタイプのものであった場合、自由主義的な考え方は育たず、全体主義的な思考回路に支配された人格が形成されることになる。たとえば、幼い頃から唯一絶対的なものは気まぐれな親であり、自分が全く同じことをしていても、その場その場の親の気分次第で褒められたり叱られたりという、そのような家庭環境で育った者には正誤の客観的判断力は育ちにくい。親の顔色をみることと、自分には非がないという言い訳を準備しておくことものみが重要になる。そういう場合、倫理的に正しい・誤っているといった客観的事実とは関係のない他者(親)の意思が絶対的なものであるため、客観的事実を自身の意思決定に結びつける回路が形成されにくくなる。すなわち、社会的な善悪の基準をもとに、こうすべき・こうしてはならないといった客観的な判断を下すパターンを身につけることができない。また力関係での上位・下位の位置付けで支配する・されるの立場が変わるという観念に支配されているため、他者に対しては強引にでも力関係で上位に立とうとあらゆる手を尽くすことになる。自身の意思は、自身にとっての支配者である重要人物の判断であったり、自身の経済的な表面的利益や人間関係の上での有利な材料を得られるか否かといった点が判断材料となる。簡単に言えば、信奉対象者の指示か、または自分の都合しか頭にないのである。一方、客観的善悪の判断の概念を初期に身につけた者は、その後、自分と他者を客観的善悪尺度に照らし合わせて、「自分が間違っていた」、「他者が正しい」といった判断を何度も繰り返して訓練することになる。その経験の中で、客観的事実と意思決定を結びつける確固たる思考回路が出来上がる。

日本には「考える科学」に適応できる多数派と適応しがたい少数派が存在するが、「考える科学」に適応できない少数派が実生活の上で不利益を被ることはあまりない。むしろ、他者の権利を侵すことに抵抗を感することなく自身の利益を守ろうとするため、少なくとも表面的には損することはなく、むしろ得することが多い生活を送ることができる。平たくいえば、今の日本では、他者の迷惑等を考慮せず、自身の個人的利益のみに執着するタイプの者は非常に生活しやすくなっている。よって、それらのタイプの人たちにとって「考える科学」のための客観的な判断力を身につける必要性は全くない。

日本では自由主義的教育が徹底されており、「考える科学」を受け入れることが極めて困難な者はごく少数であると考えられる。しかし、少数派であっても「考える科学」を受け入れることが極めて困難な者が存在することは、注目すべき事柄だ。それが、日本の今後の環境対応策を考える上で、特に憂慮すべき問題だというわけではない。ただ、個人レベルで全体主義的方向性を有した者が、「考える科学」を受け入れることが極めて困難であるという事実を理解し、それを組織レベル・国家レベルでの課題に当てはめることによって、問題の本質が見えてくるようになるのである。

【集団・グループレベル】
消費者団体、市民グループ、宗教団体、企業等の集団・グループのレベルになると、「考える科学」にとっての障害は個人レベルに比べるとずっと大きなものとなる。集団・グループは一つの方向性をもった集団としてはじめて社会的な力を発揮する。たとえば、消費税に反対する集団は、集団のメンバーの総意としての消費税反対の意見を掲げることではじめて存在価値がある。グループ内に別意見が存在することは、そのグループにとっての致命傷にもなりかねない。つまり、望ましい方向性が先に決定しているのである。当然といえば当然だが、全体主義的傾向が個人レベルに比して顕著に現れることになる。

一方で、「考える科学」の基本は判断の自由を優先することにある。たとえば、ある商品が環境・安全面で許容されるのか否かを判断する際、許容されるべき・許容されるべきではないといった結論が先に決定されることなどありえないことだ。理想は各個人が収集した事実関係を基に、それぞれの判断尺度をもって意思決定に結びつけることである。各個人が別々の思考過程を辿り意思決定に結びつけることによって、各個人の思考力が強化される。 このように、基本的には集団・グループにとって「考える科学」は厄介な代物である。特に、消費者教育の中に「考える科学」を取り入れることは、ある確固たる方向性を有した消費者団体にとっては悪性ウィルスに汚染されるような状態となる。

そこで筆者は「消費者の環境情報学」の中で、今後の消費者団体の多くは、思考方法を教授するとともに判断材料となる客観的情報を提供する組織へと変貌すべきであると述べている。個人レベルでの「考える科学」を尊重した集団・グループのあり方としては、それしかありえないと筆者は考えたからだ。従来から科学的根拠等を重視する姿勢を示してきた生活協同組合等は、そのような方向で「考える科学」に対応する組織として中心的に活躍してもらいたいと考える。しかし、消費者団体等の全体的状況から照らし合わせて考えると、集団・グループレベルでの「考える科学」普及の見込みにはやや否定的に考えざるを得ない。消費者団体には全体主義的(今回定義した意味での)な運動展開をその本来の目的としてきたものも多い。消費者教育への「考える科学」の導入なども今後求められる重要なポイントとなるが、その際も、消費者教育を支える消費者団体等の集団・グループレベルでのマイナス要素がネックとなるのではないかと考える。

【民族・国家レベル】
環境問題の全体像を捉えたならば、民族、国家というきわめて大きな次元での動向が圧倒的重大性を帯びる。日本国内でのリサイクルのあり方などは、他国への技術的影響力を除けば、地球次元での環境問題にとってそれほど大きな問題ではない。今後の環境問題の中心は、温暖化、エネルギー危機、食糧危機、人口問題等の、環境負荷の権利と資源・エネルギー、そして富の配分のあり方が最重要決定事項となる。理想は、地球環境の現状、各国の政治・経済状況等を科学的に分析し、合理的に配分を決定するという方針が、全世界的に肯定され、各国がその方針に従って行動することだ。すなわち、世界で共通して「考える科学」を基本理念とした政策決定が行われることが望まれる。

しかし、実情をみた場合、「考える科学」の普及の見通しは非常に暗いと言わねばならない。日本では比較的情報流通がフリーであり、市民レベルで種々の意見を収集することができるが、そのような自由な情報流通体制が整っているのは世界中で多数派ではないようだ。国が国民の自由な意思決定のもとで方針が決定され、その国民には自由に情報を収集する環境が整っていることが、国として「考える科学」に従った方向性を打ち出すためのの必要条件となる。しかし、そのような「考える科学」をもととした意思決定が、国家レベルで可能なのか否か、甚だ疑問に思われる。

最近、中国、韓国、北朝鮮との間のギクシャクした関係が注目を集めている。日本で収集できる一般的なマスコミからの情報等をもとに判断すると、北朝鮮には上記の「考える科学」に沿った判断を求めるのは全く不可能なことであると思われる。一般的に抱かれる国際的倫理観というものが、完全に欠如しているかのような印象を受ける。中国と韓国に関しては日本との国境をめぐる問題等がマスコミ等で注目されている。歴史問題、その他種々の要素の絡む複雑な問題であるが、一般的な日本人にとって衝撃的だったのが、それらの問題が軍事的要素と密接に繋がっており、理性的判断というより実力行使・威嚇・圧力といったせめぎ合いによる力関係が、より重要になるということが見えた点だ。

筆者は日本国内の消費者・市民レベルで「考える科学」の重要性を伝えて普及を図り、そして日本から世界に向けて「考える科学」を広めるよう努力し、最終的に国際レベルでも市民の意思決定をもととして、環境対策としてのエネルギー・資源配分計画や環境保全のための資金負担等を国際協力のものとで実施できればよいという夢を抱いていたのだが、実際レベルの国際戦略においては、そのような「きれい事」では済まない部分が圧倒的に大だと感じるようになった。

それは、個人レベルでの問題を国家レベルでの問題に置き換えてみればわかりやすい。個人レベルでみた場合、全体主義的思考パターンから他者の迷惑を顧みないで強引に自己の利益の誘導を図ろうとする者に対して、理性的な呼びかけ・説得は全く効果がない。全体主義的な流れを汲む個人の考え方とは、例えばカルト系宗教の教祖が指示したこと等を絶対的に正しいことと位置付けたり、あるいは自分自身の経済的利益等を何よりも優先すべきものと位置づけるなどで、第三者の権利等を自身の判断材料に組み入れない考え方である。すなわち、力関係で上位に位置する者が下位に位置する者に対して絶対的存在であると考え、下位に位置する者の権利等は考慮対照とはならない。平たくいえば、全体主義的思考パターンの者の行動を抑制するのは暴力的・罰則的な圧力しかなく、そこでは論理的な説得は何の力も持たない。自身の権利と他者の権利を等価で比較するような論理的な思考パターンが備わっていないからだ。

この個人レベルでの問題と同様に、国レベルでの外交関係でも全体主義的思考パターンを土台とする国に対しては、武力や経済的制裁等の実力行使型の圧力行為しか意味を成さず、理性的な呼びかけ等は全く無力なのではないだろうかと危惧するようになった。論理性を重んじるという前提での自由主義的コミュニケーションでは「考える科学」は最も尊重されるべきものであるが、全体主義的体制を維持する国や民族にとっては「考える科学」は何の価値もない。

以上のように「考える科学」の普及をめぐって、個人レベルから国家レベルにいたる今後の課題について色々と考察してきたが、特に国家レベルで科学的に正しいことがそのまま正しいこととして通用するのか否かが最も注目すべき点である。歴史的事実関係や他の事項について、国際関係の中で客観的事実がどれほどの重みをもてるのか、今しばらく情勢を観察してみよう。

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 大矢 勝 (2006.6.4)