「消費者の環境情報学」の発行にあたって(1)
〜「考える科学」の重要性の再認識〜

大学教育出版から「消費者の環境情報学」が発行された。今まで15年以上の間、筆者なりに「消費者」、「環境」、「情報」をキーワードとする社会のあり方について色々と検討してきた。扱う題材は「合成洗剤v.s.石けん」が中心。その対立構図の元、合成洗剤の環境影響・人体影響等に関する欠点を過度に誇張する情報に対して問題提起し、その結果、外部からは合成洗剤擁護派の人間として認知されるようになった。それが原因で種々の困難にも遭遇した。しかし、洗剤論争の根幹にある、本当に伝えたいことを伝えられていなかったことが何より口惜しかった。それは一言では説明できないものであり、実際に自身の中でもモヤモヤとしたつかみ所のない概念のような状態で認識されていたものであった。しかし、今回はその本当に伝えたいことを一冊の本としてまとめることができた。A5の160ページ程度、新書版よりは文字数は多いが、「ですます」調で比較的読みやすい。自分自身で読み返してみて、筆者自身の中にあったモヤモヤが、かなり解消されていくことを感じ取った。書籍の中で、安全・環境に関する情報には何より科学的根拠が重要だと述べ、消費者が科学的に思考する態度を身につけることによって、情報発信者が科学的根拠を無視できない状況を導き、それが安全・環境に関する情報の環境の向上に繋がると主張した。実際、「科学的に思考する」との態度は、現在の大学教育でも中心的課題に位置づけられており、種々の分野で望まれる方向性でもある。

平成15年度・16年度とFDに関わる仕事をすることとなった。FDとは Faculty Development のことで、カリキュラム計画や授業改善に関することを指すが、その関係で2006年3月27日(月)〜28日(火)に京都大学で開催された第12回大学教育研究フォーラムに出かけてきた。大学教育に関する種々の研究発表や講演を聴講してきたが、「消費者の環境情報学」をまとめた後だったので、非常に有意義な時間を過ごせた。というのも、今まで環境情報学というものを構築しようとする試みの中で、今後の消費者教育に求められるものを探索し、そして一応、ひとつの教育方法にたどり着き、大学学部および大学院の授業の中で実践してきたが、その方法論は当該フォーラムの中の教育学的に見地から重要視されている教育法と重なるものであることを認識した。

それは、フォーラムの中で楠見孝氏(京大院・教育学研究科)によって「批判的思考力を育てるための教育」と表現し説明されていたものである。批判とは相手を批判するばかりではなく、むしろ自身に対して向けられるものであり、要は合理的(理性的、論理的)で偏りのない思考を指す。そして、この批判的思考力を身につけ、適切な推論を行うことは学業、職業、消費などにおいて必要で、賢い学習者、消費者、優れたビジネスマン、研究者として必要なものとされる。その批判的思考と対極を成すのが、自己中心的思考、先入観、バイアス、誤解などである。特に印象に残ったのが、楠見氏の講演の中で、批判的思考力を有しないがために発生する問題の代表的事例として、悪質商法に引っかかる消費者等が挙げられていた。そして、実際の授業では、「学力低下の原因はゆとり教育か」、「血液型で人の性格は説明できるか」、「天皇制は必要か」、「民間療法は有益か」、「超異常現象は存在するか」、といったテーマで討論するというような内容が取り上げられている。

実は、「消費者の環境情報学」の中には、捕鯨問題、原子力発電、遺伝子組み換え食品、農薬使用、ダイオキシンと焼却炉規制の5つのテーマについて、それぞれ論点別に情報を整理して各自の理性的な判断に結びつけるための手法を解説し、また大学の授業の中でもそのような論点別整理を元とした判断方法を取り上げている。賛成・反対といった対立意見が存在する論争に関しては、その双方の言い分を見比べて判断に結びつける。その双方の言い分を分かりやすく整理するために、あらかじめ論点を明確にしておくことが必要だ。扱う題材が自然科学的な内容なので、根拠は科学的データが主体となる。科学的データをもとに、方向性が偏らないように異なる主張のデータをできる限り幅広く収集し、自身の判断に結びつけていくという情報収集・整理・判断に至る実習を行っている。受講生からも、論理的な判断法を学ぶことができたと好評を得ており、ひとつの科学的な態度を身につける消費者教育モデルが出来上がったと考えていた。

これに類する手法が、教育学の分野でも新たな取り組みとして扱われていることを知り、少々興奮してしまった。教育学的には批判的思考の認知的過程が、明確化、推論の基盤の検討、推論、行動の決定・問題解決とのステップで理解できるとのことであり、筆者が今後、この教育内容を深めていく際の貴重なヒントを得ることができた。それと同時に、具体的な授業内容としては筆者が取り上げてきた環境・安全関連の消費者情報が、非常に有効な題材になりうると感じた。より高レベルの思考は、より客観性の高いデータに基づいて得られると考えるが、環境・安全関連の消費者情報の元となる理化学データは批判的思考の育成教育には最適である。たとえば、批判思考の認知過程の中の推論の基盤の検討とは、推論を支える情報源の基盤を検討することであり、情報源の信頼性を、専門家によるものか、異なる情報源で一致しているか、確立した手続きを取っているかといった尺度で判断すると説明されたが、環境・安全分野の個別の話題に関しては比較的容易に情報源の信頼性を検討することができる。一方、「学力低下の原因」や「天皇制の是非」といった次元の話題に関して、客観的データを元に評価するのはかなり困難で、相当な上級レベルであり、大学・大学院での教育内容を超えているのではないかと個人的には感じる。

実際、高等教育では、より深い思考力の育成が求められるとの趣旨の発言はよく耳にしていたが、私自身の経験から実際の教育に関連付けて受け入れることができなかった。知識を伝授するだけの教育から脱した新たな教育が求められることは、小・中・高等学校から大学に至るまで、各種教育機関で認識されている。しかし、具体的方法論がないため、多くは失敗する。知識供与型教育は蓄積される知識量で教育効果が評価できるが、思考力の育成教育では、その効果を推し量ることは難しい。実際、学校教育での総合学習等が思考力育成教育に相当するであろうが、環境問題等を扱う総合学習等では、例えば「人間の諸活動が自然を破壊している」との教員の考え方を押し付けるのみに終始している場面が多い。真の意味での思考力も育たず知識量も低下するという好ましからぬ状況に陥り、知識供与型教育への回帰現象も多く見られるようになった。

やはり、この状況を打破する起爆剤的役割は、思考力育成をその教育の主目的とする高等教育の現場に求められる。その中でも、消費者教育に期待される部分は大きい。従来の消費者教育は「商品Aが商品Bより環境・安全面で優れているので商品Aを採用すべき」というような知識供与型教育が中心的であった。しかし、「商品Aと商品Bのどちらを採用すべき」ということを題材として、データを集め各自で判断するといったプロセスを教育内容として扱うのは、実社会に即した適切な思考力育成題材となりうる。特に、判断のための尺度をどのように構築するのかという点が各自の個性を伸ばす部分であり、重視されるべきある。問題は教員・指導者が「商品Aが商品Bよりも良い」といった自身の結論を押し付けるところにある。望まれるのは商品Aの方が優れているという論理展開、および商品Bの方が優れているという論理展開、その相反する両方の論理展開に通じる思考パターンを身につけることなのである。両方の長所・短所の考え得る全ての要素を考慮した上で自分自身の判断に結びつける、そのような思考パターンを身につけることが望まれるのだ。

なお、筆者は「消費者の環境情報学」の中で筆者は「知る科学」と「考える科学」との用語を用い、「知る科学」から「考える科学」への転換の必要性を説いた。「考える科学」とは、まさに上記の「批判的思考力」に相当するものである。個人的には「批判的」のネーミングについては、少々疑問を感じる。個人的経験から、商品A・Bの選択で商品Aを推奨する立場でリーダー的な役割を果たしてきた人々は商品Bに対して批判的に見ているために、自分たちの考え方を疑いなく「批判的思考」として認識するであろうし、たとえ自分自身に対しても批判的であるべきと説いたところで「今までの自分たちの商品Bに対する批判は生ぬるかった。もっと理論的に商品Bを批判せねば・・・」といった結論に達するであろうことが目に見えている。今までの考え方の逆方向の考え方も受け入れて、双方の立場から考察するという点を強調し、ある一方向性の情報を入手することを「知る」と呼び、逆方向の情報も入手して比較考察することを「考える」と呼んで、「考える科学」の必要性を論じることとした。

また筆者は以前、「知る科学」のかわりに「学ぶ科学」との言葉を用いていた。しかし、「学ぶ」では自分自身で積極的に調べ学習を行うような場面にそぐわない。「学ぶ」に当てはまらないような場面においても情報を収集・整理・評価し、自身の判断に結びつけることが求められる。そこで、元情報を受け入れるまでの過程を「知る」とした。その「知る」過程で受け入れた情報を他の情報と比較する等で評価する過程が「考える」である。細かく言えば「考える」過程で得られた結論等も「知る」ことになり矛盾するのだが、あくまで「考える」に対比する「知る」は外部から内方向へのベクトルに限定することとした。

さて、「消費者の環境情報学」の発表で筆者自身が「考える科学」の重要性を再認識したのだが、これで「石けんv.s.合成洗剤」問題の筆者のスタンスを説明することが容易になった。今まで感じていた苛立たしさ、それは合成洗剤派だとの烙印を押され、話を聞いてもらえない場面が多々あったこと。合成洗剤派であろうと農薬派であろうと、どのような烙印を押されても別にかまわないが、情報伝達に支障をきたすことは非常に辛い。それは、合成洗剤派−石けん派(反合成洗剤派)の対立構図の元、片側の人間であると認識され、逆の立場の者からは全く意見を受け入れてもらえないという状況だ。しかし、私の主張は合成洗剤を受け入れろというのが趣旨ではない。

例えば風呂の温度を例に説明しよう。ある時、湯温が50℃を超えるような場面があり火傷する者が出た。当然、湯温を下げろと水や氷を投入して湯温を下げる。しかし、35℃、30℃も下回り、これでは体が冷えて風邪を引くので湯温を上げようという意見が出る。すると、それに反応する意見が出る。「あなた、また火傷を負いたいのか。湯温を上げるなんて絶対に認められない。」との主張。湯温を上げるか下げるか、大げさに言えば火傷か凍傷かの選択である。しかし、風呂の湯温についてならば誰もが理解しているはずだ。40℃〜42℃に保っておけばよい。湯温が高すぎるとき・低すぎるときのそれぞれの問題点を理解し、人体にとっての適正な湯温を知り、そして適正な湯温に保つための方法を考えればよいのだ。しかし、これが社会問題となるとなかなかうまくいかない。過去の火傷を教訓として湯温を下げることがとにかく正しいとする思想・組織があり、湯温の下がりすぎで風邪を引いた被害者から湯温を上げろと主張する思想・組織が生まれる。それぞれの思想・組織はその一方向性に存在意義があり、その思想・組織の存在で生計を立てている者や生きがいを見出している者がいる。その状況下で適温に保とうという思考は、とにかく湯温を上げろという意見と同一視される。

この問題は、風呂であれば「適温」の概念が存在しないことによる。筆者が洗剤論争に口を挟んだ状況は、湯温を上げるか下げるかの概念しか存在しない状況で、単に「湯温を上げろ」と述べたに等しかった。だから火傷被害重視の者からは総スカンを食らった。今一度ここで言っておきたいが、筆者は風呂の湯温に例えるなら、「40〜42℃では火傷を負うことはないですよ」というレベルの主張を発したつもりであった。しかし、その真意は火傷被害重視の者にはほとんど伝わらなかったように思う。「適温」の概念を説明できなかったことがその原因だ。しかし、「消費者の環境情報学」の発行で、ようやく筆者は上記の「適温」の概念を説明するツールを手にした。これで、洗剤論争に関しても筆者の意図を伝える環境が整備された。何より筆者は洗剤論争に固執するつもりはなく、真の消費者レベルでの環境対応策に何らかの形で役立てればと考えている。少しずつ、一歩ずつ、消費者レベルでの「考える科学」の重要性を伝えていきたいと考えている。

しかし、一つの山を越えかけたところで、次の大きな山が行く手を阻んでいることがわかってきた。今後の日本において「考える科学」が消費者の情報環境を向上させることは十分に期待できるのだが、それで環境問題全体にとってどのような意味があるのか・・・?


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 大矢 勝 (2006.4.11)